エッセイ:退職します(1)

    人生が動き始めた日


    どきどきしていた。

    私の勤めていた会社では、自己申告制度というシステムがあった。半年毎に上司との面接(レヴュー)があり、ここで社員一人ひとりについてどれだけ達成できたか、どこが仕事上の問題点かを話し合うことになっている。

    私はその日を、退職を申し出る日と決めていた。

    重大な決断の前には、人は躊躇するものだ。
    そのひと言によって、私の人生はどう変わってしまうのか。抜け出せない落とし穴に入ってしまうのではないか。そう考えると、いま生きていることが奇跡のように思えた。

    −何故辞めるのか。

    人に説明するための理由は用意してあった。「大学院へ進学したい」「そのための受験勉強をしたい」「機械ではなく、こころを扱いたい」…云々。
    どれも本当の理由だった。でも、そのどれもが微妙にずれていた。私はたぶん、会社員として生きていくことに違和を感じていたのだろう。

    一流企業の社員として5年間。最初から”何かが違う”と感じていた。
    欲しいものが得られなくて、欲しくないものばかりが手に入っていた。
    ステータス、安定した給与、信用、人の顔を伺う技術、完璧を求めないこと…

    そんなものが欲しかったのか。そんなもののために、自分は一生努力し続けるのか。
    指の隙間から、何かが滑り落ちていた…確かなものをこの手で掴みたかった。

    ◆

    面接の部屋の扉は重かった。
    重苦しい私の顔を察してか、上司はいつもより明るい声で面接を始めた。

    「さ、始めましょうか。まぁ、君は仕事はいつも真面目だし、特に問題はないと…」
    「あの、今日はその前にお話しておきたいことがあるんですが。」
    「え?何ですか。」

    心臓がばくばく鳴っていた。手が小刻みに震えているのがわかる。

    「実は、会社を辞めようと思っています。」
    「えっ?」

    とにかく、意思は伝えた。それだけで精一杯だった。
    そして私の人生は、ここから文字通り大きく展開し始めるのである。


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