エッセイ:退職します(3)

    動き始める


    翌日、上司は私を会議室に呼び出した。

    「例の件だけど、本当に辞めなきゃだめ?」
    「はい。」
    「なんなら、(大学院の)試験まで残業なしにしてあげてもいいんだけど。」

    深夜まで残業するのが通常の忙しい職場。そんななか、自分だけが定時退社する生活などできるはずがない。上司は留保したいというより、製品に関する全ての知識をもつ私がいなくなることで、現場の混乱を避けたかった、というのが本音かもしれない。

    「折角ですが、それでは時間が足りません。」
    「そう…。じゃ、人事と一度面接して下さい。」

    ◆

    「いやー、大変なことを考えちゃったね。」

    人事の担当者は、開口一番そう言った。
    人生の一大事を、軽々しく扱われているようで不愉快だった。

    「一応、○○課長さんから話は聞いてるけど、どういう理由か説明してくれる?」

    説明を始めたものの、その人事担当は、私の話を半分にしか聞いていなかった。

    「そう。それで最近どう? 周囲の人とはうまくいってる?」
    「え?…あ、はい。」

    私は突飛な質問にやや驚いた。

    「○○課長さんは、どんな人?」
    「どんなって…まぁ、よくしてもらっています。」
    「特にトラブルはないの?」
    「はい、これといって特に…」

    なるほど、相手は職場内の人間関係でのトラブルが原因ではないかと勘ぐったのだろう。まぁ、無理もない。将来、職があるかどうかもわからない世界へ、何のあてもなく出ようというのだ。他の原因を心配しない方がどうかしているというものだろう。

    「もう、こういう会社には入れないと思いますよ。決心は固いんですね?」
    「はい。」

    担当者は、ちょっとがっかりしたような顔でこういった。

    「わかりました。それでは数日中に退職関係の書類を、庶務経由でお渡しします。何かありましたら、いつでも連絡してください。」
    「はい、ありがとうございました。」

    退職する…いよいよそれが、現実味を帯びてきた。


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