エッセイ:退職します(6)
いよいよ大海へ
退職する日の朝は、曇りだった。いつものように、社員証を見せて会社に入る。社員証をカードリーダーに通して昼食をとる。それもこれも今日が最後、今日が最後だと言い聞かせている自分がいた。
午前中は、お世話になった担当者へ挨拶に回った。昼すぎに人事に来るように言われていたので、担当課へ行く。
担当者は、若い女性社員だった。
「お勤め、ご苦労様でした。」
深々と頭を下げられた。同じ会社の人から頭を下げられることなど、これまでなかっただろう。昨日までは同じ社員だったのに、明日からは違う人なんだ。そう痛感した。
「では、事務手続きについてご説明します。」
もう社外の人と話すかのような口調で、その担当者は私に説明をした。
◆
事務手続きを終えると、もうすることがなかった。ぼーっと、窓から外を眺めていた。半導体の工場が見下ろせた。あの屋根に乗って、大の字に寝てみたいな、そう何度思ったことだろう。私は自由に憧れていた。その自由は、もう目の前にある。同時に、大きな責任と抱えきれないほどの不安も。
部長が最後の挨拶をさせてくれるかと思ったが、多忙らしくそれどころではないようだった。言いたいこともあったのだが、もうどうでもよかった。さよなら、薄っぺらな人間関係…
とはいえさすがに、課長は課員を集めて挨拶をさせてくれた。最後に、女性社員有志から花束をもらった。いろいろ悩み、いろいろ考え続けた5年間だった。この思いが吉と出るか凶と出るかは、これからの努力にかかっている。頼れるのはもう、ちっぽけな自分ひとりだけだった。
さあ、出よう!
外は激しい雷雨になっていた。まるで、これからの生活を予見するかのようだ。
さようなら。
さようなら、悩みぬいた日々。
花束と傘をしっかり握って、私はゲートを出た。
もう入ることは決して許されないゲートを。
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注:随分あっさり辞めたみたいになっていますが、実際はもっと複雑なプロセスです。
当然ながら本エッセイは、特定の会社を非難したり、退職を推奨したりするものではありません。