エッセイ:三十路前の放浪記(6)
そして光が
やがて冬は過ぎ、季節は春を迎えようとしていた。
光は突然にやってくる。
−ああ、そうか!
そうだったのだ。解った解った。
私はずっと、理屈を振り回し、生とは何かについて考えあぐねていた。
しかし、生とは、一瞬一瞬のことではなかったか。
私はこの一瞬一瞬をどう幸せへと転化していくか、それだけを考えればよかったのだ。
どのように人生を歩んだら幸せになれるのか、そんなことを考えたのが間違いだったのだ。
幸せは、「今」から始まる。
幸せは、将来に起こることではない。「今」にしかあり得ない。
幸せになるために行動するのではなく、行動するから幸せになれるのだ。
全てが一気に解けた。視界が急に開けた。
◆
私は、こころが急に軽くなるのを覚えた。
そして初めて、仕事と自分、心理学と自分の関係を冷静に見つめ直せるようになった。
ばらばらだったものが、ひとりでに繋がりをもってひとつの統合された形になっていく。
何という変化だろう。何という開放だろう。
私は当時の日記に書いている。
生活に意味を求め”他人を幸福にする自分”のなかにidentityを求めようと思えど、
冷静になって考えることができるようになった今、それ自体幻想であることを知る。
自分は他人を、幸せになど決してできない存在なのである。
たとえ、その人の命を救ったとしても、その人を幸せにすることはできない。
「他人を幸せにする」…ああ、何という思いあがりであろう。
私は気付いた。
−そうした人間としての宿命を考えたとき、結局、最も大切なのは、自らの幸福である。
−それは私が、私自身になるということ。
自由になったこころは、それまで謎だったことを次々と解いていく。
−その人がその人自身になることによってしか、人は救われない。
−自分の才を十分に活かしたい。
そして私は、あたりまえの事実に気付く。
−どこであろうと、自分は自分なのだ。
今、完全に自由になって初めて、自分の声が聞こえてくる。
私は会社員としての経験を捨ててはいけない。むしろそこに、自分なりの視点を加えられないか。
こころと社会、その両方からの生のあり方を提示することはできないのか。
つまり問題は、「経営」に収斂されてはいないか。
私は再び、大学の願書を取り寄せた。
もう一度、学び直そう。今度は経営学を学びに!
◆
そして私は、3度めの大学生になった。
さらにその2年後、私は憧れの大学院入学を果たし、北陸の大地へ流れ着いた。
今では研究者となり、学問を極めんと研鑚する毎日だ。
随分、大きな遠回りをしたと思う。
しかし、この遠回りは、私にしか歩めない道だ。
今、心からそう思い、あの経験に感謝したいと思う。
最近、こう思う。
『幸福? そんなもの、暇な人間が目指すものだ』、と。
一瞬一瞬の限界である生、
無条件、無目的としての生、
いずれも大切である。
だから、
全ての道に、無駄はない。
それが本気の試みである限りにおいて。
私は学んだ。
本気で生きること、それが全てだと。
苦しみや哀しみの克服も、
感謝や歓喜に震える経験も、
本気で生きること、
ただそれだけだったということを。
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最後まで読んでくれてありがとう。
本エッセイを、全ての心優しき戦士へ捧げます。