エッセイ:リーダーシップ論(4)
リーダーシップの幻想
企業では業績が悪くなると,社長がよく交代する.成功すればマスコミが押し寄せ,「こうすれば成功する」等の成功本が本屋に並ぶ.これらはいずれも,組織の業績の原因がリーダーにあることを含意した動きだといえる.
人は,因果を求めるものである.集団の業績が上下すると,無意識にその原因を探し始める.しかし,因果関係があまりに複雑であると,とりあえず業績の原因をリーダーのせいにして,思考を停止させてしまう.マインドルらは,人々が集団業績の原因をリーダーに過剰に帰属させる傾向を持っていることを実験を通じて明らかにし,これをリーダーシップの幻想(ロマンス)と呼んだ.
リーダーシップの幻想は,おそらくは社会的に作られる.テレビのドラマには,誰もが納得できる“素敵な結末”が用意されている.ヒーローは,ヒロインを間一髪のところで必ず救い出すし,水戸黄門は,番組終了間際にもなれば悪者たちをすっかり退治し,長く苦しめられていた町民たちに温かい言葉をかける.こうしたヒーローたちは,例外なく“強くて優しい”.私たちの暗黙のリーダー像はこうして作られ,危機を救うリーダーへの過度な期待が始まる.
しかし,現実のリーダーは,結末がわかっていないドラマの主役を演じなければならない.そこには台本など一切ない.再び東日本大震災の例を挙げれば,「大地震が起きて,原発が壊れて,東電や専門家の言うことがあてにならないときに,リーダーは何をすべきか」なんてことは,どの本にも書かれていない.だから小さな失敗はする.しかし,リーダーシップの幻想を抱いた国民たちはこうした失敗を知ると,たちまち期待を裏切られたような気になる.本当はリーダーのせいではないかもしれないことまでもリーダーが悪いのだと思い始め(しばしば,マスコミがこれを煽る),途端に「リーダーシップがない」と責め出すのである.
見方を変えれば,こうした傾向は,私たちのリーダーに対する期待が,進むべき道に迷った際に光を照らす道標のようなものであることを示している.つまり,リーダーシップへの関心は,平時よりは危機的状況において強く生じる.
今日のリーダーシップ研究もまた,“平時のリーダー”から,フォロワーや社会システムに対して並はずれた効果をもった“例外的なリーダー”へと,その視点が移ってきている.道を見失った際に頼りにしたいものは,リーダーの行動特性(構造づくりや配慮)にはおそらくない.私たちは,リーダーが持っている“徳”とでもいうものに魅きつけられ,その“徳”の向こう側に見える理念に,自らの理想や未来を重ね合わせながら生きていこうとするのである.つまりは,「指導者になるにはまず,人間にならなくてはならない」(孔子)のである.前回へ戻る/続きを読む